うな丼は、「牛久沼が発祥の地」といわれており、国道6号線の牛久沼湖畔は、うなぎの老舗が軒を連ね、うなぎ街道と呼ばれています。2015年8月現在の「牛久沼うなぎ街道」の現状をお伝えします。
うな丼誕生の秘密
うな丼発案者「大久保今助」と「牛久沼」
江戸時代後期に江戸日本橋堺町に芝居の金方(資金を出す人)で、鰻の大好きな大久保今助という人物がいた。その今助が故郷である現在の茨城県常陸太田市に帰る途中、水戸街道を牛久沼まで来て、茶店で渡し船を待っているときに鰻が食べたくな り、蒲焼きとドンブリ飯を頼んだ。
ところが、注文した品が出てきたとき「船が出るよー」の声。今助はドンブリと皿を借り、ドンブリ飯の上に蒲焼きののった皿をポンと逆さにかぶせて船に乗り込み、対岸に着いてから土手に腰をおろして食べたところ、蒲焼きが飯の温度で蒸されていて、より柔らかくなり、飯にはタレがほどよくしみこんで、これまでに食べたどこの鰻よりもうまかった。
その後、どのように「うな丼」が広まったのかは、いくつかの説があります。一つは、今助が帰りに茶屋に食器を返しながら、その話をし、茶屋が出すようになったところ、水戸街道の名物になったというもの。もう一つは、今助が自分の芝居小屋でうな丼を売り出して江戸から広まったという説。さらに、うな丼が牛久沼の茶屋で出されるようになった一方、今助は、自分の芝居小屋で芝居に付きものの重詰めの代わりにご飯に蒲焼を載せさせて重箱を取り寄せ、それが江戸でうな重としてとして広まっていき、庶民にも、うな丼の形で提供するようになったという説もあります。
(龍ヶ崎市ホームページ「うな丼発祥の地牛久沼」より引用)
牛久沼畔のうなぎ店
国道6号線の牛久沼湖畔は、うなぎの老舗が軒を連ね、うなぎ街道と呼ばれています。当サイト・うなぎ大好きを開設しようとリサーチしていた2004年当初、牛久沼畔のうなぎ店は8店舗ありました。訪問前に『牛久亭』が閉店して7店舗となり、2015年8月では4店舗になってしまいました。閉店・休業した店舗も含めご紹介いたします。
営業中
休業・閉店
牛久亭