数週間前からうなぎ大好きドットコムの主要コンテンツ【うなぎ屋さんレポート】をサムネイル画像表示にカスタマイズしていた。〔東京都のうなぎ屋さん〕を整理していると板橋区、練馬区のうなぎ屋さんに伺うと東京都23区は最低1店は訪問していることに気が付いた。
鰻友に板橋区でお勧めのうなぎ屋さんを尋ねると志村坂上の『うなぎ鮒与』さんを勧めてくれたので伺った。
都営三田線・志村坂上駅A2出口で地上に出ると道路の向こうには榎の大木を中心に塚が築かれている。
中山道3番目の一里塚【志村一里塚】である。
【志村一里塚】
徳川家康は、関東に封ぜられて(天正十八年1590)以来街道の整備を進めてきたが、慶長九年(1604)秀忠に命じて、江戸を中心とした五街道に榎を植えた一里塚を築かせ、これを全国におよぼした。
江戸日本橋を基点とし、一里を三十六町(四キロメートル弱)に統一し、中山道では、本郷森川宿、板橋宿平尾につぎ、志村一里塚は第三番目の塚である。
塚は道の両側に向かいあって五間(約九メートル)四方、高さ一丈(約三メートル)の定めによって築かれ、旅人にとっては、里程や乗物の支払いの目安になり、またその木陰はかっこうの休所にもなった。
一里塚が完全な姿で残るのはまれで、都内では北区西ヶ原のそれと二ヶ所のみであり、交通史上の重要な遺跡として、国および板橋区の史跡に指定・登録された文化財である。
昭和62年10月 板橋区教育委員会
故に中山道との交差点は〔志村一里塚〕の表示がる。
地下鉄出口脇の電柱に『うなぎ鮒与』さんの巻付広告がある。
矢印の方向に進む。
最初の交差点は直進、次の丁字路で右折の表示があり、進むとお店の看板が見える。
道に迷わずに来れば、志村坂上駅から徒歩2分ほど着く。
小上がり席に先客が1組。
テーブル席が空いていたので勧められたが、火鉢に近いカウンター席に座られてもらう。
初訪なのでメニューを拝見する。
〈うなぎ重〉の鰻の量を尋ねると〈梅〉からが1尾付けというので〈うなぎ重・梅〉をお願いする。
30~40分待つというので〈うなぎきも焼〉〈うなぎたんざく塩焼〉を頼むと、確認してくれ〈うなぎきも焼〉はラストの1本ということで運が良い。
〈サッポロ黒ラベル〉をいただきながらゆっくりと待つこととする。
カウンター席の後ろには4人掛けテーブルがひとつ。
その奥に小上がり座敷があり、座卓が二つ。
とても落ち着いて居心地が良い。予約を勧めているが、繁忙期でなければゆっくりと待つにはもってこいの雰囲気である。
火鉢に鰻が乗ったので、お願いして撮影させていただく。
いくぶん火が近いようである。
団扇を使わずに手返しだけで焼いていくところが独特な感じがした。
焼き上がった〈うなぎたんざく塩焼〉をいただいて、その焼きの技術の高さを痛感する。
サクッとした歯応えの後から閉じ込めたジューシーな脂と旨みが口の中に広がっていく。
「ちっちゃくてごめんね。」とご主人。
店で裂いて出た肝しか使わず、大きい部分は肝吸いに入れてしまうので、出せる〈きも焼〉の数も限られるそうだ。
「肝だけを仕入れるとどこの鰻かわからないからお客さんに自信を持って出せないからね。」
至極もっともなこだわりである。
ちょうど待つこと30分、お重に炊き立てのご飯が盛られて〈うなぎ重・梅〉がお出まし。
蓋を開けると香ばしい蒲焼の香りが漂い、堪えられない。
しっかりと焼き色がついているが、鰻自体が焦げている訳ではない。
タレを炭火で燻煙させているといえばよいのだろうか。
皮目と比べると決して焦している訳ではないことがよくわかる。
ご飯に絡んだタレは甘さを抑えたさっぱりしたものだが、蒲焼に纏ったタレは奥行きの深い味わいを出している。
注文を受けてから炊くご飯の美味さも特筆すべきものだ。
この店に勤めて20年以上というベテラン従業員女性の堅めに炊かれたご飯を空気を入れるようにふわっとさせる盛り方も蒲焼を引き立てている。
蒸しが入っている関東風なのだが、地焼きの美味さも感じる私の好みのど真ん中な蒲焼だ。
大きめのお椀たっぷりの〈肝吸い〉はこの〈うなぎ重〉によく合っている。
食事を終えて、1940年(昭和15年)生まれとおっしゃる御年77歳の店主・川淵さんとお話させていただく。
『鮒与』という屋号は川淵さんのお祖父様が始めた佃煮屋が始まりでお父様の代から鰻を扱うようになったとのこと。
当時の店は板橋区清水町にあり、近くに陸軍の施設(現在の味の素西が丘フィールド)があったために大いに賑わったそうだ。
しかし、戦局が悪化して軍の施設ご攻撃目標にとなったことで戦禍は免れなかったという。
戦後、お父様はやはり板橋区清水町(現在の志村警察署清水町交番近く)に店を再興して多くのお弟子さんも育てたという。そのひとりが代々木上原でミシュラン・ビブグルマンを獲得している『鮒與』の先代だということだ。
川淵さんは、サラリーマン生活の後にお店に入ってお父様、弟さんとともに店を盛り立ててきたそうだ。
お父様の店が本蓮沼へ移転を機に志村坂上で開業したという。
本蓮沼の『鮒与』は弟さんが事故で亡くなってしまい、現在は甥御さんが跡を継いでいるそうだ。
川淵さんは「30近くなって、この道に入ったから根っからの職人じゃないんですよ。」と笑うが、半世紀近く鰻一筋でやってこられたのだから名人級の腕前だということは、こちらの鰻が証明していると思う。
「もう歳だからいつまで出来るか、わかりません。気に入ってくれたらまた来てください。」と見送られたが、もちろんまたお邪魔したいと思うが、小上がり座敷に飾ってある「商い繁盛 益々うなぎ昇り」の軸のようにまだまだ元気で鰻を焼き続けてほしいと願わずにはいられない。
持つべきものは、好みの似た鰻友である。良い店を紹介してもらい、心から感謝している。